/ マチグヮー

 那覇で観光客に人気のショッピング・飲食街は、国際通りとマチグヮーです。それぞれ、観光客の9割近く、4割以上が訪れています(那覇観光)。年間観光客が870万人とすると、1日2万人以上が国際通りを訪れていることになります。
 マチグヮーとは、「市場」を意味する方言で、第一牧志公設市場や平和通り商店街など昔ながらの市場・商店街を指します。

●地元の人はあまり行かない?
 国際通りは、百貨店の並ぶ表通りのショッピング街で、マチグヮーは、庶民的な裏通りの地元商店街でしたが、今ではいずれも観光客相手のみやげ物店や飲食店が主流となっています。那覇市民の6割は、ほとんど国際通りには行かず(年に1、2回以下)、7割は、ほとんどマチグヮーには行かない、ということです(平成30年度那覇市民意識調査報告書)。

 ほとんど行かない(年に1、2回以下)という比率は、両者とも年々増加しています。

 那覇市の中心商店街で通行量が多いのは、パレットもくじ周辺、第一牧志公設市場周辺、国際大通りです。マチグヮーでは、平和通りと水上店舗沿いに人が集まっています(平成30年度 那覇市中心商店街通行量調査報告書)。

 通行量が多いマチグヮーは、下の図でいうと、国際通りのドン・キホーテ横から南へ市場中央通りと平和通りに挟まれた一帯です(NAHA NAVI=那覇市内を中心とした観光マップです。てんぷす那覇の観光案内所でもらえます)。これ以外の場所ではぐっと人通りは少なくなりますが、栄町市場や壺屋やちむん通りなどには観光客は高い満足度を示しています(那覇観光)。

ドンキホーテの手前、「黒糖ドーナツ棒」の看板下から左へ、市場本通りが始まります。さらに手前、「ダイコク」の看板下から左へ、むつみ橋通りが始まります。「美ら豆」の看板下の少し盛り上がった部分がむつみ橋の痕跡です。白い柵は欄干の名残です。かつて、市場本通りとむつみ橋通りの間にはガーブ川が流れていて国際通りには、むつみ橋が架かっていました。ガーブ川は、現在は暗渠になっており、暗渠の上は、水上店舗となっています。

●「持ち上げ」が有名
 市場中央通り商店街を南に少し入ると第一牧志公設市場がありましたが現在建て替え中で、近くの仮設市場で営業を続けています(公設市場仮設ページ那覇市牧志公設市場が建替えのため仮設店舗への移転!)。第一牧志公設市場では「持ち上げ」が有名ですが、ひとりでは利用しにくいようです(沖縄県民は意外に未経験では??公設市場の「持ち上げ」で新鮮食材を楽しんだ)。

解体の進む公設市場。初めて訪れたときは、公設市場は無くなってしまうものと思いましたが、しばらく辺りを見回して、仮設市場の案内に気づきました。 
 観光マップの関係部分を拡大すると次のようになります↓


1時過ぎの仮設市場。昼食を食べ終わり、客が引き上げたようです

 下の地図(作成時には公設市場がまだありました)の、にぎわい広場という表示の場所に、現在は仮設市場が建っています(ライトマップル沖縄県道路地図=薄い地図帳なので街歩きには重宝します)。ガーブ川は、のうれんプラザ(G6)西側で途切れてますが、ここから暗渠になり、水上店舗地下から、沖映通り地下を通り、ジュンク堂南側で再び姿を現しています。


なぜ「第一」「公設」なのか

 考えてみれば、第一牧志公設市場というのは、少し不思議な名称です。第一というからには、第二、第三がありそうです。公設市場というからには、中央卸市場のようなものをイメージしますが、そうでもなさそうです。さらに、公設市場雑貨部、衣料部というものや、水上店舗というものもあります。
 商店街における利用の重層という論文に、第一牧志公設市場誕生の詳しいいきさつが紹介されています。それを参考に、上記の疑問の謎解きをすると、次のようになります。
 戦後の混乱の中で、市が税収目当てで、地主に無断で個人商人に土地を割り当て商売をさせたのが「公設」の由来です。国際道路南側に広がった店舗群は、すべて「公設市場」となったのです。牧志公設市場は市が建物を賃貸していましたが戦後しばらく経って、地主から土地の返還を請求されます。そして、すったもんだのあげく、市は第一と第二の2つ公設市場を作ってしまいました(第二公設市場は現在の仮設市場の場所にありました)。これが「第一」の由来です。一方、ガーブ川の土手斜面にも、てんでに(公設でない)バラック小屋が建てられました。これが元祖水上店舗です。その後、ガーブ川を暗渠にした際に、その上に2階建ての店舗建物が作られました。これが現在の水上店舗です。1階部分はアーケード街の一部となっています。2階部分では営業を続けている店もあるようです。

 上記論文の内容を年表にまとめると次のようになります。 
1945.10 割当土地制度発足:「個人私有地や公有地について、市町村長の権限で土地を割り当てて利用させ」「土地所有者は、割り当てを受けた人びとから地代をとってはならず、立ち退きを要求してはならない」、割当土地での商いが、後に「公設市場」と称されることになる(狭義の公設市場だけでなく、「ガーブ川以外の土地は、みんな割り当てた土地なんです」。行政からの割当土地は、そのままでは到底利用することができない代物であった。それが、いまマチグヮーとして利用できているのは、商人たちが土地の整備に多くの労力をかけたからである) 
1949.1 那覇市公設市場使用条例が制定される(1950年度の予算では、歳入の6割が、市場収入と使用料で占める) 
1958  那覇市議会は「ガーブ川水上店舗早急撤去要請決議」を満場一致で可決(ガーブ川は、底がたいへんに浅く、その周りに水上店舗が建っていたため、ふだんはごみにあふれて汚くて、雨がふると、たびたび氾濫が起きていた)

ガーブ川と水上店舗(1950)那覇市歴史博物館
1962  日米琉政府の財政援助のもと、那覇市は、ガーブ川の浚渫工事に着手する 

戦後、自然発生的に生まれてきたバラック水上店舗の取り壊し作業=1962年8月19日、那覇市牧志(沖縄タイムス+プラス
1964 牧志公設市場の土地所有者が土地返還を要求(割り当て土地臨時措置法は1965年6月30日で期限切れとなる)、那覇市は公設市場改築案を提出
1965  ガーブ川を暗渠化したうえで、新しい水上店舗が完成 

ガーブ川の上に建設中の新たな水上店舗。(1964頃)那覇市歴史博物館
1966  那覇市が公設市場の移転プランを発表、新市場が完成した際に現市場敷地を地主に返還する、という覚え書きを交わす。公設市場事業者は3分の2が反対 
1967  新市場が着工 
1968.11 市場移転反対を公言していた革新の平良良松が市長に当選 
1969.6  平良市長は、新市場の利用を優先すると表明するが、移転反対派の猛反発を受け移転をしないことを約束 
1969.7 市議選で移転推進派の自民党が惨敗 
1969.10 公設市場で大火事。その後、地主は、新たな建物の建造に対する差し止めを訴えて認められるが、那覇市は土地を強制収用して、第一牧志公設市場を建設することを決める 
1972 第一牧志公設市場が完成、1969年に完成していた新公設市場は第二牧志公設市場と命名される。以後、30年近くの間、2つの公設市場が並存 
2001 第二牧志公設市場が閉鎖、その後、にぎわい広場となる(オープンしてすぐに客足が途絶えていた) 


旧公設市場近くの八百屋で島バナナを買いました。 

島バナナは10日ほどで熟しました。左は、あっぷるタウンで買ったモンキーバナナです。島バナナの方が、酸味がやや強く野趣にとんだ味わいです。

 ●公設市場には雑貨部と衣料部もあるが
 ライトマップル沖縄県道路地図には、公設市場雑貨部と公設市場衣料部は、むつみ橋通りに面しているように描かれています。

 また、NAHA NAVIにも公設市場雑貨部は、むつみ橋通りに面しているように描かれています。

 一方、公設市場の使用者募集のしおりによれば、公設市場雑貨部と公設市場衣料部は、むつみ橋通りに面していません。

 Google マップによると、むつみ橋通りのアーケードは途中からなくなり、公設市場雑貨部と公設市場衣料部は、むつみ橋通りに面していないようです。地図の作成時以降に、現場の様子は変化したのでしょうか。
 
  公設市場雑貨部と公設市場衣料部は、1948年に開設され、1982年に現在の建物に改築されました。入居率は衣料部約5割、雑貨部約8割で、売り上げが月20万円未満の事業者が約7〜8割を占めているそうです(那覇の公設市場「将来は民間運営に」 衣料や雑貨扱う部門 活性化委員会が提言)。公設市場衣料部前の平和通り
には、1日5000人以上の人通りがあるようですが、売り上げには結びついていないようです。
 公設市場の使用者募集のしおりによれば、衣料部は呉服、かりゆしウエアなどの小売販売、雑貨部は食料品販売を除く小売販売ですが、お土産品は扱えないそうです。


市場本通りにある産直店、国内観光客がターゲットのようです

平和通りにあるドラッグストア、外国人観光客をターゲットにした免税店です

平和通りにあるカーテン専門店、地元向けの店です